江夏の21球

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スローカーブをもう一球

『江夏の21球』は山際淳司氏の名作短編である。日本シリーズの第7戦、広島カープの江夏投手が9回裏に投げた21球を描いた作品である。絶体絶命の場面でスクイズを見破り見事日本一に輝いたあのシーンである。作品はエッセー集『スローカーブを、もう一球』の中に他の作品7編とともに収められている。

背番号94

その7編の中に、『背番号94』がある。ぜひ読んで欲しい作品である。長島監督が監督1年目のオフに、同郷の高校を直接訪問し、直接交渉して巨人軍に入団させた選手がいる。『背番号94』はその選手の生き様を描いた作品である。

主人公は私の中学校の後輩である。全校生徒120人程の小さな小さな中学校から巨人軍に入団したのである。快挙である。しかしながら彼はこの地区で始めてのプロ野球選手ではなかった。11年間で3人目のプロ野球選手なのである。1学年40人ほどの小さな中学校から11年間で3人ものプロ野球選手を輩出したのである。

11年間で男子の卒業生は220名。そのうち3名(1.36%)がプロ野球選手になったのである。異常に高い確率である。全国平均の100倍以上である。時は巨人のV9時代である。長嶋・王・野村の全盛期で、テレビでは毎日野球中継がある。男の子の夢はプロ野球選手である。この時代にこの地区は驚異のプロ野球選手輩出率を誇っていたのである。

これは東京オリンピックの2年前に、この中学校に赴任してきた一人の熱血教師によるものである。彼が赴任した中学校は純農村地帯で、体力を持て余した若者たちが、喧嘩ばかりしていた。  荒れた中学校を、前任の教師が、野球部を作って生徒指導を始めたが、なかな か思うように進んでいなかった。

30代のその熱血教師は国語の教師であり、野球の経験はなかったが、若くて体力には自信があった。悪ガキたちを押さえつける自信もあるので野球部の指導を買って出たのである。身長180cm、体重80kg、顔は人並み以上に怖い。名前は重吉。 このプロフィールを聞いただけで悪ガキたちが震え上がりそうである。 この教師が、この後11年間で3人ものプロ野球選手を生み出したのである。

田舎の子供達は体力自慢が多い。機械化がまだ進んでいない農村では子供達は貴重な戦力である。中学生になれば大人の仕事もできる。遊びも豪快である。川を堰き止めて、うなぎや鯉をとって小遣い稼ぎをした。また稲刈りがはじまる前に、害虫駆除のイナゴ取りも子供たちの楽しみであり収入源でもあった。学校主催のイナゴ取り大会でも大量にイナゴが捕れる。売上は学校の備品購入等に充てていた。

熱血先生はこのイナゴを売った金で子供たちを国立競技場へ連れて行った。東京オリンピックの前年に行われたプレオリンピックの見学である。また後楽園球場での野球見学も行い、子供達に視野を広げ、スポーツの素晴らしさも教えて行った。

体力自慢の子供達が徐々にスポーツに目覚めていったのである。

野球を通して他の中学校との交流も深めていった。子供達にとって交流試合の後の遊びも大きな楽しみであった。山の中学校を招待して利根川にサッパ舟(櫓を使う手漕ぎ舟)を浮かべ、船遊びを楽しんだ。山の中学校からはきのこ狩りに招待されて、山の奥深くまで入り込み遊びを堪能した。子供達が考えたスリル満点で危険な遊びであるが、子供達の自主性に任せた。

安全最優先で指導する今の教育とは少し違っていた。時には体罰を伴う厳しい躾を行い、子供達から怖がられた。父兄からの信頼も厚くなった。高校に進学した卒業生達が、野球の楽しさや厳しさを教えてくれた。真夏にバケツから水をかけられながらも練習をする野球部になっていった。

野球部は年々強くなり4年目で結果が出た。赴任した翌年に入学してきた子が、名門銚子商業に入り甲子園出場を果たした。6年目は名門土浦日大から誘いがあり4番を任される子が出た。11年目が背番号94の主人公である。彼は野球名門校ではない下総農業高校に入った。高校2年の時、エースで4番を打ちベスト4に入り名門校を驚かせた。この活躍がのちに長嶋監督の訪問につながるのである。

『背番号94』の主人公はこの熱血教師が教えた最後のプロ野球選手である。

この事を山際淳司氏が知っていたら、 もっともっと面白い長編小説を描いていたかもしれない。